Saturday, December 31, 2016

よい年を

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 年末恒例の旧友たちとの忘年会を終え、先程帰宅した。女房は今日もパートに出掛けているため、これから私が掃除をして年越しの準備をする。
 2016年も無事に終わろうとしている。家族全員、この一年病気もせず事故もなく過ごし、平穏な一年であったことに感謝したい。
 来年は55才になる。そろそろ、真剣に老後のことを考えないといけない時期になりつつある。友人の一人が、俺たちにはもう時間があまりないと昨夜の忘年会で言っていたが、この健康、体力を維持できるのは、あと10年ぐらいだろうと思う。
 小学生の時に、まだまだたっぷりあると思っていた夏休みが、お盆を過ぎて残りわずかとなったことに気付き、途方に暮れた気分になった。それに似た悲しさを最近感じるようになってきた。
 今年一年、仕事も趣味も充実していた。来年もさらにその延長でいれるように努力したい。限られた夏休みを有意義に過ごし、自由研究の課題を仕上げなければならないと思うのであった。

 今年一年、私のブログにお越しいただいた皆様に感謝を申し上げます。
 以前ほど投稿ができておりませんが、それでも、今後も続けて行きますので、思い出したらお立ち寄りください。
 
 よい年をお迎えください。


                                     盆暮
 



Monday, December 12, 2016

下北沢

最後に追加した項目-26




   下北沢で、娘と娘の彼氏と三人で飲んだ。
   金曜の夜、行きつけの小さなバーで。
   客は俺たち三人だけ。
   俺はウオッカを三杯。
   娘はジュース。
   そして、娘の彼氏はファジーネーブル 。
   娘の彼氏は、いいやつだった。
   俺より、多分いいやつだと思う。





Sunday, December 11, 2016

東京タワー

最後に追加した項目-34

 今年最後の出張で東京に行った。今年一年、お世話になった方々に年末の挨拶をし、夜は久しぶりに娘と会って、新橋のホテルに泊まった。
 翌朝、朝食を取ろうと部屋を出ると、廊下の突き当たりのガラス窓に、東京タワーがいきなり現れた。まだ眠気が残る中、澄みきった青い空にそびえ立つ東京タワーを、立ち止まってしばらく眺めた。

 東京タワーの完成は昭和33年。この地に半世紀以上立ち続けている。その存在は戦後復興の象徴として、今もあり続けている。
 東京スカイツリーができてからは、観光名所としての役割を譲りつつあるが、かけがえのない思い出は、私たちの心の中に消えることなく刻まれている。
  若い頃、従弟たちと六本木で飲んで見上げた東京タワー。会社の窓から残業を終えて見た東京タワー。転勤で東京を去る時に家族4人で登った東京タワー。東京タワーの近くで一時期働いていたこともあり、私も思い出は多い。

 2020年には東京オリンピックが開催される。東京、日本は、今あらたな時代を向かえようとしている。 その大きな流れの中に東京タワーは立っている。時代を俯瞰するように立ち続けている。
  久しぶりに見た東京タワーをスマートフォンで写真に納め、その場を後にした。





Sunday, December 04, 2016

12月

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 静かな森の神社では、木漏れ日が差し込み
 少しだけあたりを、あたたかく照らしていた。









 

Wednesday, November 23, 2016

九重三俣山

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 11月19日、今年最後の九重に登った。仲間と6人、長者原登山口に車を停め、霧の中を三俣山を目指して歩いた。
 写真がその三俣山である。その名の通り、山が三つの峰に分かれて見える。正確に言えば本峰、西峰、南峰、北峰の四つの峰から構成されるのだが、下界から見ると南峰が本峰に隠れて三峰に見えるのである。写真の右から、西峰、本峰、北峰、そして、本峰と北峰の間にあるのは指山と言う山である。

 私たちは、当初西峰、本峰、南峰の三峰を縦走する予定であった。しかし、山頂付近はガスに覆われ、次第に風も強くなり、西峰だけで断念し山を降りることとした。
 風が吹き荒れる中、昼食を取り山を降りる。進むほどにますます霧は濃くなり、視界が利かなくなって行く。もともとが細い登山道であったこともあり、私たちは登って来た道を見失った。
 次第に雨が降り出しとうとう雷が鳴り出した。幾条もの稲光が目の前を走り去る。私たちは岩陰に避難し、進むべき道を完全に見失っていた。
 途方に暮れていると仲間の一人が、「見えた!」と叫んだ。動く雲のその間に、一瞬隙間ができて、下界が見えたのである。その雲の隙間に目を凝らすと、川のように横たわる北千里が見え、その北千里の先を辿るとすがもり越えが見えた。
 ようやく今いる場所が分かった私たちは、山の斜面を一気に北千里を目指して駆け下り、すがもりの避難小屋にたどり着いたのだった。

 写真は下山後に長者原から撮ったものである。その頃には雨も止み霧も晴れ、おだやかな表情の三俣山に戻っていた。そのおだやかな三俣山を見上げ、生還できた喜びを私たちはかみしめた。しばらくその場に立ちすくみ、今降りて来た峰を無言で見上げていた。







Sunday, November 06, 2016

ゆふいんの森号

すべての写真-276



 夕闇迫る鳥栖駅のホームに
 ゆふいんの森号がゆっくりと入って来た。
 ようやく明かりを灯した蛍光灯が
 その薄緑の車体を幻想的に照らす。

 博多までいっそこれに乗って帰ろうかと思うが
 全席指定で乗ることはできない。
 降りる客はいるが乗り込む客は誰もいない。
  
 立食いうどんを食べながら
 その優しく照らされた薄緑の車体を眺める。
 まるでゆふいんの森号が銀河鉄道999のように
 夜の星空に消えて行きそうな気がした。






Sunday, October 30, 2016

焼きビーフン

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 ビーフンは中国南部福建省発祥の麺料理である。ビーフンと言えばケンミン食品、ケンミン食品と言えばビーフンと言うくらい、ケンミン食品は日本におけるビーフンのパイオニアである。
  昭和25年、台湾出身の高村健民氏が神戸の地に健民商会を創立し、ビーフンの製造を始める。これがのちのケンミン食品である。 当初は生麺だったらしいが、より多くの人に食べてもらうため、氏は日持ちする乾燥麺の製造を開始。そして、昭和35年には即席ビーフンの製造を始め、ビーフン料理は全国の家庭に浸透して行く。特に台湾からの引き揚げが多かった九州では、需要も大きかったらしい。

 時折、思い出したように焼きビーフンを食べたくなることがある。そんな時は近所の中華料理屋に行って、ビールを飲みながら焼きビーフンをつまむ。日本統治時代の台湾に思いを馳せながら、ビーフンを口に放り込むのである。




    

Sunday, October 16, 2016

スパゲッティー

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 写真は博多駅近くにあるスパゲッティー屋のバジリコスパゲッティー(塩味)である。この店は福岡では珍しい、いわゆるロメスパの店である。ロメスパとは、立ち食いそば屋のようなスパゲッティ屋のことで、ロメスパの「ロメ」は路麺、「スパ」はスパゲッティの略で、有楽町のジャポネが有名である。
 特徴としては極太麺を使用し、大盛りが可能である。メニューは、ナポリタン、ジャポネ(醤油味)、バジリコ(塩味)、インディアン(カレー)など、有楽町ジャポネのメニューが、ロメスパ店の標準となっているようである。ようするに、昔喫茶店で食べていたスパゲッティーが、小じゃれたパスタと袂を分かち、独自に進化していったのがロメスパではないかと思う。
 社会人になった頃、昼飯を会社近くのスパゲッティー屋へよく食べに行っていた。メニューはナポリタンとミートソースと塩スパゲティー(ナポリタンの塩味)の三種類しかなく、塩スパゲティーの大盛りをよく注文していた。出来上がりを待つ間、ビックコミックオリジナルを読んで待つ。小さな店のテーブルにはタバスコと粉チーズが置いてあり、それをたっぷりと掛けて食べる。それが正しい食べ方だと思っていた。もう30年以上昔の話しである。
 それから、バジリコやカルボナーラ、ペペロンチーノなどのメニューが登場すると、いつしかスパゲッティーはパスタと呼ばれ出すようになった。麺も徐々に細くなって行き、細い麺に上品な量が本物のパスタであるような風潮になって行った。
 いまだにパスタと呼ぶことに恥ずかしさを感じる私は、ロメスパの出現をうれしく思う。昭和のスタイルを守り、独自の道を貫いた有楽町ジャポネに敬意を表したい。ひさしぶりに極太麺のスパゲッティーを食べながら、遠い昔に食べた塩スパゲッティーを思い出したのだった。









Monday, October 10, 2016

玉名ラーメン

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 友人と玉名の山に登り、玉名ラーメンを食べて帰った。玉名ラーメンを食べるのは実に23年ぶりのことだった。
 玉名ラーメンの歴史は、昭和27年、白濁とんこつスープを開発した久留米の中華そば屋「三九」の店主四ヶ所氏が玉名へ進出したところから始まる。店は瞬く間に評判となり、玉名にうまいラーメンがあると噂を聞きつけ、熊本市内からも客が押し寄せたと言う。その中に、後に「こむらさき」「味千ラーメン」「松葉軒」を開店し、熊本ラーメンの礎を築く若き三人の店主たちもいたらしい。
 その後、玉名「三九」は昭和31年に閉店となり佐賀へ移転することになるが、当時住み込みで働いていた十代の従業員が味を引き継ぎ、閉店の翌年、玉名に「天琴」を開店させる。さらに、その「天琴」の従業員が「大輪」を開店させ、その味は玉名ラーメンとして確立されて行く。

 一方、佐賀に移転した「三九」から、従業員が「一休軒」を開店させ、その味に惚れ込んだ男が修行をし、「一休軒鍋島店」(現在の「もとむら」)を開店させる。こうやって久留米ラーメンは、四ヶ所氏の弟子たちによって九州一円に普及して行ったのである。
 残念ながら佐賀の「三九」は平成25年に火災で閉店を余儀なくさせられ、そして四ヶ所氏も今年7月その88才の生涯に幕を下ろした。もし、四ヶ所氏がいなければ、現在のような久留米ラーメンの普及はなかったかもしれない。

 今日、チェーン店を広げ事業としてラーメン屋を展開していく有名店が多いが、そんな中で、師匠から弟子へ、そしてまたその弟子へと四ヶ所氏のラーメンは受け継がれて行った。氏の弟子たちが伝道師となって、九州一円に久留米ラーメンを普及して行ったのである。
 住み込みで叩き込まれ、修行してようやく一人前になって九州各地に散って行った男たちが作る魂の一杯に、強くロマンを感じるのだった。




Saturday, October 01, 2016

高輪の喫茶店

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 今週、出張で東京に行った。東京出張の際、よく立ち寄る喫茶店がある。場所は品川高輪。大通り沿いのビルの1階にこじんまりとその店はある。
 店は七十過ぎのおばあさんが一人でされている。熊本出身の方で、結婚して間もない頃は、福岡にも住んでいたことがあるらしく、同じ九州出身と言うこともあって、いつしか店に立ち寄るようになった。

 朝10時過ぎ、出勤前の客も引いて一段落した頃、羽田から品川に着いた私は店のドアを開けた。「あら、今回は早かったのね。」とおばあさんがカウンターの中から私に声を掛けた。前回この店に来たのが6月終わりだったから、3ヶ月振りの訪問だった。
 コーヒーを飲みながら、おばあさんと話をしていたら、今回の震災で熊本の実家を取り壊すことになったと言われた。年に一度、熊本に帰っていたが、もう帰るところなくなったと、表の通りを眺めながらぽつりと言われた。
  この地に店を出して40年。以前は夫と従業員の三人でやられていたらしいが、夫に先立たれ、今は一人で細々とやられている。土日祝日は休みで、平日も病院に行く日は三時頃に店を閉めることもあるらしい。それでも、この界隈で働く常連たちは、毎日出勤前にここでコーヒーを飲み、新聞を読んで出勤する。
 高齢であるため身体のことが気に掛かるが、 「店を閉めようかとも思ったこともあるけど、開けていれば一日ひとつは良いことがあると思って続けているの。」とおばあさんは言う。「ほら、今日だってあなたが九州から来てくれたじゃない。」と私に優しく微笑んで言ってくれた。

 私も定年まであと5年。今の職務が変わらなければ、この店に半年に1回は立ち寄ることができるだろう。あまり無理はして欲しくはないが、できれば私が定年になるまで店を続けて欲しい。私も常連の一人として定年を向かえた時に、「出張は今日が最後になりました。お世話になりました。」と挨拶したいと思ったのだった。







Sunday, September 25, 2016

学窓

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 娘の高校の学園祭が行われ、女房と二人で出掛けた。高校三年生になる娘、今年が最後の学園祭であった。
 娘は茶道部に所属しており、茶室でお茶を立て訪れた父兄たちをもてなしていた。茶室がちょっと込み合っていたので、待つ間に校舎の中で行われている出し物を見て回った。各教室では部活動の作品の展示や、食べ物の販売、お化け屋敷などが行われており、父兄や学生たちで賑わっていた。

 そんな来場者で混雑する校舎内を移動する中で、ふと窓から見えた風景に目が止まった。写真がその風景である。校舎三階の西側の窓から、正面に大きく見える円形の建物はヤフオクドームである。右側にはお寺の赤い五重塔があり、日本の伝統とドームの建築美の融合に、ある種の美しさを感じた。
 娘は三年間この風景を見て来たことになる。この風景を高校生活の思い出と共に記憶に刻み、娘は来年の春にこの学校を巣立って行く。その風景を娘に代わってカメラに納めた。娘の高校生活の記念にカメラに納めたのだった。



Monday, September 19, 2016

豚足

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 写真は先週、私の行きつけの居酒屋で撮った豚足料理の写真である。この日は女房と二人で久しぶりに外食したのだが、女房が大の豚足好きで、この日もメニューに豚足を見つけると、女房は迷わず注文した。
 博多の焼き鳥屋では塩焼きにした豚足を供する店が多いが、この店では薄く小麦粉をまぶした豚足をフライパンで焼き、それに酢醤油をかけて食べる。これがなかなか美味しくてこの店の名物にもなっており、私もよく注文する。

 私が学生だった頃、バイト先に明石の方から応援に来ていた谷やんという男がいた。身長は180cm以上あり、体重も100キロを超える大男だったが、気が優しくいつもニコニコしていた。私と谷やんは同い年だったこともあって親しくなり、休みの日に一緒にドライブに行ったりもしていた。
 その谷やんが応援を終えて明石に帰ることになった。最後の夜、屋台に行きたいと言い出したので、二人でバイト先の車を借りて、久留米の屋台まで駆けつけた。
 その時谷やんが、メニューに豚足と書いてあるのを見つけ、どんな料理か私に質問した。文字通り豚の足を焼いただけの料理だと説明すると、谷やんはニッコリ微笑んで記念にと豚足を注文した。
 久留米の小さな屋台で、力士と見紛うばかりの巨漢の谷やんが、豚足に食らいついている。その姿がおかしくて今も記憶に残っている。もう、三十年以上も昔の話であるが、豚足を見ると時々谷やんのことを思い出す。今も元気にしているのだろうかと、思い出すのである。





車窓

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 お盆、親戚の初盆へ行くため、ひとり伊万里へ向かった。有田まではJRの特急電車に乗り、有田から松浦鉄道に乗り換え、昨年亡くなった叔父の家へと向かった。
 写真は西有田あたりで撮ったものである。炎天下、エアコンの効いた車内から、車窓にまぶしく広がる景色を見ながら、10年以上前、このあたりを営業で回っていた頃のことを思い出していた。お世話になった取引先の方々、そして営業で忙しく回っていた頃のことが、懐かしく思い出された。
 東京へ異動となり、お世話になった取引先に最後に挨拶に回った時、とあるお店の奥さんが涙を流して別れを惜しんでくれた。私の営業成績は大したことはなかったが、そのことが私には後に大きな糧となった。その時に伊万里焼の高価なセットをいただいたが、使うのが勿体なく、今も大切にしまっている。
 そんなことを思い出しながら、なつかしい風景を眺めていた。青々とした空がどこまでもまぶしく続く中を、一両編成の列車に揺られていた。







Sunday, September 18, 2016

もとむら

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 ラーメンは進化している。良きも悪きも進化し続けている。進化の過程では利益が優先され、集客のために味は誇張される。出来上がったものは極端な味付けの、うすっぺらなスープであり、値段だけが一人前である。
 そんな中、かたくなに味を守り続けている店がある。写真がそんな昔ながらの味を守り続けている店のラーメンであるが、見ただけでそれが尋常でないことがわかる。
 屋号を「もとむら」と言う。佐賀市内の外れにその店はある。ウオーキングの帰りに友人たちと立ち寄ったが、誰もがこの味に黙り込んだ。深みのあるスープは優しくクリーミーであり、よくぞこの味を守り抜いたと、その苦労を賞賛したくなる。
 残念ながら、博多にはもはやこのレベルの店はないだろう。ラーメンブームは続くが、いつかどこかで、その進化はターニングポイントを迎えるだろう。いつかは本来のラーメンに回帰して行く作り手が、登場するのだろうと思っている。








夏の記憶

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 大きな入道雲を右手に見ながら、山頂を目指した。
 この光景が今も忘れられずにいる。
 今も蝉が鳴き続けている。






Sunday, September 11, 2016

中洲JAZZ

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 久しぶりに記事を書いている。暑かった夏も終わり、ようやく街も火照りが引きつつある。週末、博多の街の風物詩となりつつある中洲JAZZが今年も開催された。
 年々、来場者数も増えているようである。昨夜の中洲大通りはごった返す人で、足の踏み場もないくらいに、盛り上がっていた。基本的に無料でアーチストの演奏が聴けるイベントだが、その運営は大丈夫なのだろうかと心配しつつ、毎年楽しみにしている。
 昨夜、妻と二人に久しぶりに出かけ、お目当てのFridePrideのステージを十分に楽しんで帰って来た。中洲の熱狂の中にしばし身を置いて、元気をもらって帰って来た。




Sunday, July 10, 2016

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 気が付けば一年の半分が終わり、七月に入っていた。博多の街では、櫛田神社の大祭祇園山笠が始まり、あちこちに展示された飾り山に、行き交う人々は足を止めて見上げ、夏の到来を実感している。フィナーレである「追い山」に向かって、これから博多は一年で一番エネルギッシュな時期を迎える。

 前回の投稿から二ヶ月ほど空いてしまった。あまりに更新されないので、心配した従兄弟が「何かあったのか?」とメールして来た。心配かけて申し訳ない。友人たちとの登山・ウオーキングの企画や、その写真の整理・動画作成に熱中してしまい、ブログの更新を怠っていたのである。 両立できれば良いのだが、一点にしか集中できない性分なので、そのイベントの企画に没頭したのである。
  
 これからも自分のペースで更新して行きたいと思うので、気を長くしてお付き合いいただければと思う。思い出した時に、立ち寄っていただければ幸いである。





 
 
 

Sunday, May 08, 2016

六六軒

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 六六軒は佐賀県鳥栖市にあるラーメン屋である。創業43年、少年時代から通ったラーメン屋であるが、今月末をもって閉店することになった。最後にもう一度食べておきたいと思い、郷里へ帰る途中立ち寄った。
 六六軒の店主はラーメン屋を開業する前、食料品の販売を当時行っていた私の実家に出入りされていた。店主は私に記憶はないと思うが、私はその当時の若く溌剌とされていた店主の事を記憶している。当時幼かった私が会話をすることはほとんどなかったが、それでも真っすぐで正直そうな方だったと記憶している。
 店を畳まれる理由を私は知らないが、恐らくは高齢になられたことが、その理由だろうと思う。地域に愛された店が無くなるのは本当に残念であるが、それは仕方がないことである。始まりがあれば必ず終わりがあるのである。
 長い間、お疲れまでした。そして、ありがとうございましたと心の中で囁きながら、最後のラーメンと炒飯を食べた。







ゴールデンウイーク

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 ゴールデンウイーク、友人たちと三人で耳納連山に登った。筑後草野駅を下車し、そこから森の中へ入り、発心山、耳納山、高良山と縦走した。
 耳納連山は、久留米市に端を発し、大分県境まで東西に伸びている。まるで筑紫平野への南から侵入を防ぐように横たわっている。その稜線を東から西へと辿った。写真は高良山の参道で撮ったものであるが、五月のまぶしい日射しが、参道の楓の間からこぼれ、石段をまだらに照らしていた。
 下山後、ラーメン屋でビールを喉に流し込んだ。汗で水分を失った身体に、ビールが沁み渡っていく。顔からほんのりと酔いが回っていく感じが、何とも言えない。その後、銭湯に入り、そして餃子を食べて、バーで2杯ほど飲んで帰った。
 心地良い疲れと、酔いに包まれ、友人たちと電車に揺られながら帰った。とてもおだやなか気分になれたゴールデンウイークの一日であった。






Saturday, April 16, 2016

久住のこと

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 先週また久住に登った。日帰りの予定であったが、急遽2日前に宿を取って一泊して帰って来た。写真は久住山々頂で撮ったものであるが、一眼レフの電池を不覚にも切らしており、やむなくスマートフォンで撮った。
 久住山を下りて、九重ヒュッテという登山者御用達の宿に泊まった。宿泊客は私たち以外に女性のグループが一組だけで、おかみさんが作った山菜料理に舌鼓を打ちながら、アットホームなひと時を過ごした。

 九州では木曜日から地震が断続的に続いている。昨夜も夜中、スマートフォンから鳴り響く警報で二回叩き起こされた。ニュースを見ると被害が熊本から大分へと移動している。九州ではかつてない規模の震災である。九重ヒュッテのことが気になり、恐る恐る電話を入れてみたら、おかみさんが電話口に出た。今のところ被害は無いとのこと、少し安堵し六月にまた行くからと言って、電話を切った。

 余震は今も続いている。テレビでは被害状況が延々と報道され、暗澹たる思いで週末を過ごしている。大分自動車は由布院付近の土砂崩れで現在通行止めである。また、やまなみハイウエイも亀裂が入り、部分的に通行止めとなっている。一刻も早く収束して欲しいと思いながらニュースを見ている。これから久住は一年で最もはなやかな季節を迎える。ミヤマキリシマが咲き乱れる久住に会えることを願いながら、ニュースを見ている。



 

Sunday, April 03, 2016

夜桜

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 昨日、家族で夜桜を見に福岡城へ行った。天候に恵まれ、福岡城は昨年に増して大勢の花見客でにぎわっていた。お濠端ではライトアップされたさくらが水面に写り、その幻想的な光景に皆足を止め、うっとりと見入っていた。
 天気予報では今日の夜雨が降るようである。恐らくその雨で、このさくらも散ることになるだろう。その束の間のさくらを、遊びに来た義母や姪っ子たちと一緒に眺めた。義母たちはお濠のさくらのライトアップが、こんなにきれいだとは知らなかったと言って喜んでくれた。
 来年もまた義母たちは見に来るだろう。それまで元気にしていてほしい。さくら見物に我が家へ来ることを、毎年楽しみにしていてほしいと思う。






Monday, March 21, 2016

菜の花

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 友人たちとウォーキングを行った。年に2回、長崎本線に沿って、鳥栖から長崎を目指すウォーキングである。今回で4回目。4回の歩行距離の合計は50kmを越そうとしている。
 写真は六角川の土手に咲いていた菜の花である。六角川は武雄市西部に端を発し、佐賀県白石町あたりで蛇行を繰り返しながら流れを大きくし、やがて有明海に注ぐ。その蛇行する川の土手一面に菜の花が咲いており、私たちはしばしその土手に沿って歩いた。雨がようやく上がったばかりの曇り空の下、黄色く揺れる菜の花を見て、ようやく冬が終わったことを実感した。
 来年の8月15日には長崎に到達しないといけない。気の早い友人は、精霊流しのその日にすでにホテルを予約したのである。銅鑼と爆竹が鳴り響く喧噪の中で、私たちのウォーキングは終わりを迎える。その日が今から待ち遠しい。





Saturday, March 05, 2016

三月

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 二月はあっと言う間に過ぎ去り、三月を迎えた。
 三月一週目の土曜日は、高気圧に覆われ20度を超える陽気だった。写真は福岡城のお濠端で日向ぼっこをする鴨である。真冬の間は首をすくめ、体温を逃がさないように丸くなっていたが、春の陽気に包まれた今日は、水面に照り返す日の光の中を、気持ちよさそうに歩いていた。
 もう少しするとさくらの便りが聞かれるだろう。ようやく寒かった冬も終わろうとしている。








Monday, February 22, 2016

山荘の夜

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 談話室ではストーブが焚かれ、登山客たちがそのストーブを取り囲んでいる。コーヒーを淹れる者がいて、食事を作る者がいる。山を降りてささやかに祝杯を上げる者がいて、明朝、山頂を目指そうと準備する者がいる。誰もが満ち足りた顔をし、居合わせた者達が一夜の思い出を共有している。それぞれの人生の中で、この夜のことをきっと大切に綴じ込むのだろう。
 月明かりしかない山の中で、笑い声とともにそんな温かな光が辺りを照らしていた。



Sunday, February 21, 2016

大船山

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 2月6日、久住の大船山に登った。
 登山口まで二時間歩き、山道に入った。休むことなく続く急峻な道を登り続け、ようやく山頂に近づくと、吹雪に見舞われた。半世紀生きて来たが、これほど寒さを恐ろしく感じたことはなかった。 おにぎりや飲料水は凍って、つま先は感覚を失いつつあった。
 西から吹き付ける雪は尾根にぶつかると大きく舞い上がり、そして次の峰を目指してまた吹雪いて行く。美しさよりも恐ろしさを感じた。大袈裟かもしれないが、生きて山荘にたどり着くか不安だった。そんな中を友人二人と歩き続け、ようやく山荘が見えた時、生きて帰れたと安堵した。
 今もあの寒さが身体の芯に残っているような気がする。そして掌には山荘のストーブの暖かさも。あれから、ずっと残っているような気がするのである。




Saturday, January 23, 2016

ホットウイスキー

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  大寒の日、秘密基地でホットウイスキー。
  ほっとしました。






下北沢にて

最後に追加した項目-272




  いつまでも、その灯火を消すことなくその場所に、あり続けてほしいのです。






成人式

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   あっという間に二十歳になった
   あっという間に巣立って行った
   うれしさと淋しさの 間を私は
   行ったり来たりしている








Sunday, January 03, 2016

謹賀新年

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 みなさん、明けましておめでとうございます。
 旧年中はご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

 正月も早三日。明日から仕事の方も多いと思いますが、今年の正月はいかがでしたか?
私はと言うと、近場をうろうろしている内、あっと言う間に終わってしまいました。
 写真は初詣に行った神社の福くじの賞品とおみくじです。旅行券を狙っていたのですが、残念ながら当たったのは熊手でした。しかし、くじを引いた方にはもれなく神社の人の万歳三唱が付いていました。狭い境内で万歳三唱が響き渡り、後ろで順番を待っている人が拍手をしてくれました。それがちょっと嬉しく、正月らしい風景の中で、しあわせを感じたのでした。

 さあ、明日は仕事始め。今年も頑張って良い一年にしたいと思います。
 みなさんの一年も、すてきな一年になりますようお祈りいたします。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。