Sunday, October 30, 2016

焼きビーフン

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 ビーフンは中国南部福建省発祥の麺料理である。ビーフンと言えばケンミン食品、ケンミン食品と言えばビーフンと言うくらい、ケンミン食品は日本におけるビーフンのパイオニアである。
  昭和25年、台湾出身の高村健民氏が神戸の地に健民商会を創立し、ビーフンの製造を始める。これがのちのケンミン食品である。 当初は生麺だったらしいが、より多くの人に食べてもらうため、氏は日持ちする乾燥麺の製造を開始。そして、昭和35年には即席ビーフンの製造を始め、ビーフン料理は全国の家庭に浸透して行く。特に台湾からの引き揚げが多かった九州では、需要も大きかったらしい。

 時折、思い出したように焼きビーフンを食べたくなることがある。そんな時は近所の中華料理屋に行って、ビールを飲みながら焼きビーフンをつまむ。日本統治時代の台湾に思いを馳せながら、ビーフンを口に放り込むのである。




    

Sunday, October 16, 2016

スパゲッティー

最後に追加した項目-5

 写真は博多駅近くにあるスパゲッティー屋のバジリコスパゲッティー(塩味)である。この店は福岡では珍しい、いわゆるロメスパの店である。ロメスパとは、立ち食いそば屋のようなスパゲッティ屋のことで、ロメスパの「ロメ」は路麺、「スパ」はスパゲッティの略で、有楽町のジャポネが有名である。
 特徴としては極太麺を使用し、大盛りが可能である。メニューは、ナポリタン、ジャポネ(醤油味)、バジリコ(塩味)、インディアン(カレー)など、有楽町ジャポネのメニューが、ロメスパ店の標準となっているようである。ようするに、昔喫茶店で食べていたスパゲッティーが、小じゃれたパスタと袂を分かち、独自に進化していったのがロメスパではないかと思う。
 社会人になった頃、昼飯を会社近くのスパゲッティー屋へよく食べに行っていた。メニューはナポリタンとミートソースと塩スパゲティー(ナポリタンの塩味)の三種類しかなく、塩スパゲティーの大盛りをよく注文していた。出来上がりを待つ間、ビックコミックオリジナルを読んで待つ。小さな店のテーブルにはタバスコと粉チーズが置いてあり、それをたっぷりと掛けて食べる。それが正しい食べ方だと思っていた。もう30年以上昔の話しである。
 それから、バジリコやカルボナーラ、ペペロンチーノなどのメニューが登場すると、いつしかスパゲッティーはパスタと呼ばれ出すようになった。麺も徐々に細くなって行き、細い麺に上品な量が本物のパスタであるような風潮になって行った。
 いまだにパスタと呼ぶことに恥ずかしさを感じる私は、ロメスパの出現をうれしく思う。昭和のスタイルを守り、独自の道を貫いた有楽町ジャポネに敬意を表したい。ひさしぶりに極太麺のスパゲッティーを食べながら、遠い昔に食べた塩スパゲッティーを思い出したのだった。









Monday, October 10, 2016

玉名ラーメン

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 友人と玉名の山に登り、玉名ラーメンを食べて帰った。玉名ラーメンを食べるのは実に23年ぶりのことだった。
 玉名ラーメンの歴史は、昭和27年、白濁とんこつスープを開発した久留米の中華そば屋「三九」の店主四ヶ所氏が玉名へ進出したところから始まる。店は瞬く間に評判となり、玉名にうまいラーメンがあると噂を聞きつけ、熊本市内からも客が押し寄せたと言う。その中に、後に「こむらさき」「味千ラーメン」「松葉軒」を開店し、熊本ラーメンの礎を築く若き三人の店主たちもいたらしい。
 その後、玉名「三九」は昭和31年に閉店となり佐賀へ移転することになるが、当時住み込みで働いていた十代の従業員が味を引き継ぎ、閉店の翌年、玉名に「天琴」を開店させる。さらに、その「天琴」の従業員が「大輪」を開店させ、その味は玉名ラーメンとして確立されて行く。

 一方、佐賀に移転した「三九」から、従業員が「一休軒」を開店させ、その味に惚れ込んだ男が修行をし、「一休軒鍋島店」(現在の「もとむら」)を開店させる。こうやって久留米ラーメンは、四ヶ所氏の弟子たちによって九州一円に普及して行ったのである。
 残念ながら佐賀の「三九」は平成25年に火災で閉店を余儀なくさせられ、そして四ヶ所氏も今年7月その88才の生涯に幕を下ろした。もし、四ヶ所氏がいなければ、現在のような久留米ラーメンの普及はなかったかもしれない。

 今日、チェーン店を広げ事業としてラーメン屋を展開していく有名店が多いが、そんな中で、師匠から弟子へ、そしてまたその弟子へと四ヶ所氏のラーメンは受け継がれて行った。氏の弟子たちが伝道師となって、九州一円に久留米ラーメンを普及して行ったのである。
 住み込みで叩き込まれ、修行してようやく一人前になって九州各地に散って行った男たちが作る魂の一杯に、強くロマンを感じるのだった。




Saturday, October 01, 2016

高輪の喫茶店

最後に追加した項目-58

 今週、出張で東京に行った。東京出張の際、よく立ち寄る喫茶店がある。場所は品川高輪。大通り沿いのビルの1階にこじんまりとその店はある。
 店は七十過ぎのおばあさんが一人でされている。熊本出身の方で、結婚して間もない頃は、福岡にも住んでいたことがあるらしく、同じ九州出身と言うこともあって、いつしか店に立ち寄るようになった。

 朝10時過ぎ、出勤前の客も引いて一段落した頃、羽田から品川に着いた私は店のドアを開けた。「あら、今回は早かったのね。」とおばあさんがカウンターの中から私に声を掛けた。前回この店に来たのが6月終わりだったから、3ヶ月振りの訪問だった。
 コーヒーを飲みながら、おばあさんと話をしていたら、今回の震災で熊本の実家を取り壊すことになったと言われた。年に一度、熊本に帰っていたが、もう帰るところなくなったと、表の通りを眺めながらぽつりと言われた。
  この地に店を出して40年。以前は夫と従業員の三人でやられていたらしいが、夫に先立たれ、今は一人で細々とやられている。土日祝日は休みで、平日も病院に行く日は三時頃に店を閉めることもあるらしい。それでも、この界隈で働く常連たちは、毎日出勤前にここでコーヒーを飲み、新聞を読んで出勤する。
 高齢であるため身体のことが気に掛かるが、 「店を閉めようかとも思ったこともあるけど、開けていれば一日ひとつは良いことがあると思って続けているの。」とおばあさんは言う。「ほら、今日だってあなたが九州から来てくれたじゃない。」と私に優しく微笑んで言ってくれた。

 私も定年まであと5年。今の職務が変わらなければ、この店に半年に1回は立ち寄ることができるだろう。あまり無理はして欲しくはないが、できれば私が定年になるまで店を続けて欲しい。私も常連の一人として定年を向かえた時に、「出張は今日が最後になりました。お世話になりました。」と挨拶したいと思ったのだった。