Wednesday, November 23, 2016

九重三俣山

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 11月19日、今年最後の九重に登った。仲間と6人、長者原登山口に車を停め、霧の中を三俣山を目指して歩いた。
 写真がその三俣山である。その名の通り、山が三つの峰に分かれて見える。正確に言えば本峰、西峰、南峰、北峰の四つの峰から構成されるのだが、下界から見ると南峰が本峰に隠れて三峰に見えるのである。写真の右から、西峰、本峰、北峰、そして、本峰と北峰の間にあるのは指山と言う山である。

 私たちは、当初西峰、本峰、南峰の三峰を縦走する予定であった。しかし、山頂付近はガスに覆われ、次第に風も強くなり、西峰だけで断念し山を降りることとした。
 風が吹き荒れる中、昼食を取り山を降りる。進むほどにますます霧は濃くなり、視界が利かなくなって行く。もともとが細い登山道であったこともあり、私たちは登って来た道を見失った。
 次第に雨が降り出しとうとう雷が鳴り出した。幾条もの稲光が目の前を走り去る。私たちは岩陰に避難し、進むべき道を完全に見失っていた。
 途方に暮れていると仲間の一人が、「見えた!」と叫んだ。動く雲のその間に、一瞬隙間ができて、下界が見えたのである。その雲の隙間に目を凝らすと、川のように横たわる北千里が見え、その北千里の先を辿るとすがもり越えが見えた。
 ようやく今いる場所が分かった私たちは、山の斜面を一気に北千里を目指して駆け下り、すがもりの避難小屋にたどり着いたのだった。

 写真は下山後に長者原から撮ったものである。その頃には雨も止み霧も晴れ、おだやかな表情の三俣山に戻っていた。そのおだやかな三俣山を見上げ、生還できた喜びを私たちはかみしめた。しばらくその場に立ちすくみ、今降りて来た峰を無言で見上げていた。







Sunday, November 06, 2016

ゆふいんの森号

すべての写真-276



 夕闇迫る鳥栖駅のホームに
 ゆふいんの森号がゆっくりと入って来た。
 ようやく明かりを灯した蛍光灯が
 その薄緑の車体を幻想的に照らす。

 博多までいっそこれに乗って帰ろうかと思うが
 全席指定で乗ることはできない。
 降りる客はいるが乗り込む客は誰もいない。
  
 立食いうどんを食べながら
 その優しく照らされた薄緑の車体を眺める。
 まるでゆふいんの森号が銀河鉄道999のように
 夜の星空に消えて行きそうな気がした。






Sunday, October 30, 2016

焼きビーフン

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 ビーフンは中国南部福建省発祥の麺料理である。ビーフンと言えばケンミン食品、ケンミン食品と言えばビーフンと言うくらい、ケンミン食品は日本におけるビーフンのパイオニアである。
  昭和25年、台湾出身の高村健民氏が神戸の地に健民商会を創立し、ビーフンの製造を始める。これがのちのケンミン食品である。 当初は生麺だったらしいが、より多くの人に食べてもらうため、氏は日持ちする乾燥麺の製造を開始。そして、昭和35年には即席ビーフンの製造を始め、ビーフン料理は全国の家庭に浸透して行く。特に台湾からの引き揚げが多かった九州では、需要も大きかったらしい。

 時折、思い出したように焼きビーフンを食べたくなることがある。そんな時は近所の中華料理屋に行って、ビールを飲みながら焼きビーフンをつまむ。日本統治時代の台湾に思いを馳せながら、ビーフンを口に放り込むのである。




    

Sunday, October 16, 2016

スパゲッティー

最後に追加した項目-5

 写真は博多駅近くにあるスパゲッティー屋のバジリコスパゲッティー(塩味)である。この店は福岡では珍しい、いわゆるロメスパの店である。ロメスパとは、立ち食いそば屋のようなスパゲッティ屋のことで、ロメスパの「ロメ」は路麺、「スパ」はスパゲッティの略で、有楽町のジャポネが有名である。
 特徴としては極太麺を使用し、大盛りが可能である。メニューは、ナポリタン、ジャポネ(醤油味)、バジリコ(塩味)、インディアン(カレー)など、有楽町ジャポネのメニューが、ロメスパ店の標準となっているようである。ようするに、昔喫茶店で食べていたスパゲッティーが、小じゃれたパスタと袂を分かち、独自に進化していったのがロメスパではないかと思う。
 社会人になった頃、昼飯を会社近くのスパゲッティー屋へよく食べに行っていた。メニューはナポリタンとミートソースと塩スパゲティー(ナポリタンの塩味)の三種類しかなく、塩スパゲティーの大盛りをよく注文していた。出来上がりを待つ間、ビックコミックオリジナルを読んで待つ。小さな店のテーブルにはタバスコと粉チーズが置いてあり、それをたっぷりと掛けて食べる。それが正しい食べ方だと思っていた。もう30年以上昔の話しである。
 それから、バジリコやカルボナーラ、ペペロンチーノなどのメニューが登場すると、いつしかスパゲッティーはパスタと呼ばれ出すようになった。麺も徐々に細くなって行き、細い麺に上品な量が本物のパスタであるような風潮になって行った。
 いまだにパスタと呼ぶことに恥ずかしさを感じる私は、ロメスパの出現をうれしく思う。昭和のスタイルを守り、独自の道を貫いた有楽町ジャポネに敬意を表したい。ひさしぶりに極太麺のスパゲッティーを食べながら、遠い昔に食べた塩スパゲッティーを思い出したのだった。









Monday, October 10, 2016

玉名ラーメン

すべての写真-244

 友人と玉名の山に登り、玉名ラーメンを食べて帰った。玉名ラーメンを食べるのは実に23年ぶりのことだった。
 玉名ラーメンの歴史は、昭和27年、白濁とんこつスープを開発した久留米の中華そば屋「三九」の店主四ヶ所氏が玉名へ進出したところから始まる。店は瞬く間に評判となり、玉名にうまいラーメンがあると噂を聞きつけ、熊本市内からも客が押し寄せたと言う。その中に、後に「こむらさき」「味千ラーメン」「松葉軒」を開店し、熊本ラーメンの礎を築く若き三人の店主たちもいたらしい。
 その後、玉名「三九」は昭和31年に閉店となり佐賀へ移転することになるが、当時住み込みで働いていた十代の従業員が味を引き継ぎ、閉店の翌年、玉名に「天琴」を開店させる。さらに、その「天琴」の従業員が「大輪」を開店させ、その味は玉名ラーメンとして確立されて行く。

 一方、佐賀に移転した「三九」から、従業員が「一休軒」を開店させ、その味に惚れ込んだ男が修行をし、「一休軒鍋島店」(現在の「もとむら」)を開店させる。こうやって久留米ラーメンは、四ヶ所氏の弟子たちによって九州一円に普及して行ったのである。
 残念ながら佐賀の「三九」は平成25年に火災で閉店を余儀なくさせられ、そして四ヶ所氏も今年7月その88才の生涯に幕を下ろした。もし、四ヶ所氏がいなければ、現在のような久留米ラーメンの普及はなかったかもしれない。

 今日、チェーン店を広げ事業としてラーメン屋を展開していく有名店が多いが、そんな中で、師匠から弟子へ、そしてまたその弟子へと四ヶ所氏のラーメンは受け継がれて行った。氏の弟子たちが伝道師となって、九州一円に久留米ラーメンを普及して行ったのである。
 住み込みで叩き込まれ、修行してようやく一人前になって九州各地に散って行った男たちが作る魂の一杯に、強くロマンを感じるのだった。




Saturday, October 01, 2016

高輪の喫茶店

最後に追加した項目-58

 今週、出張で東京に行った。東京出張の際、よく立ち寄る喫茶店がある。場所は品川高輪。大通り沿いのビルの1階にこじんまりとその店はある。
 店は七十過ぎのおばあさんが一人でされている。熊本出身の方で、結婚して間もない頃は、福岡にも住んでいたことがあるらしく、同じ九州出身と言うこともあって、いつしか店に立ち寄るようになった。

 朝10時過ぎ、出勤前の客も引いて一段落した頃、羽田から品川に着いた私は店のドアを開けた。「あら、今回は早かったのね。」とおばあさんがカウンターの中から私に声を掛けた。前回この店に来たのが6月終わりだったから、3ヶ月振りの訪問だった。
 コーヒーを飲みながら、おばあさんと話をしていたら、今回の震災で熊本の実家を取り壊すことになったと言われた。年に一度、熊本に帰っていたが、もう帰るところなくなったと、表の通りを眺めながらぽつりと言われた。
  この地に店を出して40年。以前は夫と従業員の三人でやられていたらしいが、夫に先立たれ、今は一人で細々とやられている。土日祝日は休みで、平日も病院に行く日は三時頃に店を閉めることもあるらしい。それでも、この界隈で働く常連たちは、毎日出勤前にここでコーヒーを飲み、新聞を読んで出勤する。
 高齢であるため身体のことが気に掛かるが、 「店を閉めようかとも思ったこともあるけど、開けていれば一日ひとつは良いことがあると思って続けているの。」とおばあさんは言う。「ほら、今日だってあなたが九州から来てくれたじゃない。」と私に優しく微笑んで言ってくれた。

 私も定年まであと5年。今の職務が変わらなければ、この店に半年に1回は立ち寄ることができるだろう。あまり無理はして欲しくはないが、できれば私が定年になるまで店を続けて欲しい。私も常連の一人として定年を向かえた時に、「出張は今日が最後になりました。お世話になりました。」と挨拶したいと思ったのだった。







Sunday, September 25, 2016

学窓

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 娘の高校の学園祭が行われ、女房と二人で出掛けた。高校三年生になる娘、今年が最後の学園祭であった。
 娘は茶道部に所属しており、茶室でお茶を立て訪れた父兄たちをもてなしていた。茶室がちょっと込み合っていたので、待つ間に校舎の中で行われている出し物を見て回った。各教室では部活動の作品の展示や、食べ物の販売、お化け屋敷などが行われており、父兄や学生たちで賑わっていた。

 そんな来場者で混雑する校舎内を移動する中で、ふと窓から見えた風景に目が止まった。写真がその風景である。校舎三階の西側の窓から、正面に大きく見える円形の建物はヤフオクドームである。右側にはお寺の赤い五重塔があり、日本の伝統とドームの建築美の融合に、ある種の美しさを感じた。
 娘は三年間この風景を見て来たことになる。この風景を高校生活の思い出と共に記憶に刻み、娘は来年の春にこの学校を巣立って行く。その風景を娘に代わってカメラに納めた。娘の高校生活の記念にカメラに納めたのだった。



Monday, September 19, 2016

豚足

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 写真は先週、私の行きつけの居酒屋で撮った豚足料理の写真である。この日は女房と二人で久しぶりに外食したのだが、女房が大の豚足好きで、この日もメニューに豚足を見つけると、女房は迷わず注文した。
 博多の焼き鳥屋では塩焼きにした豚足を供する店が多いが、この店では薄く小麦粉をまぶした豚足をフライパンで焼き、それに酢醤油をかけて食べる。これがなかなか美味しくてこの店の名物にもなっており、私もよく注文する。

 私が学生だった頃、バイト先に明石の方から応援に来ていた谷やんという男がいた。身長は180cm以上あり、体重も100キロを超える大男だったが、気が優しくいつもニコニコしていた。私と谷やんは同い年だったこともあって親しくなり、休みの日に一緒にドライブに行ったりもしていた。
 その谷やんが応援を終えて明石に帰ることになった。最後の夜、屋台に行きたいと言い出したので、二人でバイト先の車を借りて、久留米の屋台まで駆けつけた。
 その時谷やんが、メニューに豚足と書いてあるのを見つけ、どんな料理か私に質問した。文字通り豚の足を焼いただけの料理だと説明すると、谷やんはニッコリ微笑んで記念にと豚足を注文した。
 久留米の小さな屋台で、力士と見紛うばかりの巨漢の谷やんが、豚足に食らいついている。その姿がおかしくて今も記憶に残っている。もう、三十年以上も昔の話であるが、豚足を見ると時々谷やんのことを思い出す。今も元気にしているのだろうかと、思い出すのである。





車窓

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 お盆、親戚の初盆へ行くため、ひとり伊万里へ向かった。有田まではJRの特急電車に乗り、有田から松浦鉄道に乗り換え、昨年亡くなった叔父の家へと向かった。
 写真は西有田あたりで撮ったものである。炎天下、エアコンの効いた車内から、車窓にまぶしく広がる景色を見ながら、10年以上前、このあたりを営業で回っていた頃のことを思い出していた。お世話になった取引先の方々、そして営業で忙しく回っていた頃のことが、懐かしく思い出された。
 東京へ異動となり、お世話になった取引先に最後に挨拶に回った時、とあるお店の奥さんが涙を流して別れを惜しんでくれた。私の営業成績は大したことはなかったが、そのことが私には後に大きな糧となった。その時に伊万里焼の高価なセットをいただいたが、使うのが勿体なく、今も大切にしまっている。
 そんなことを思い出しながら、なつかしい風景を眺めていた。青々とした空がどこまでもまぶしく続く中を、一両編成の列車に揺られていた。







Sunday, September 18, 2016

もとむら

最後に追加した項目-226

 ラーメンは進化している。良きも悪きも進化し続けている。進化の過程では利益が優先され、集客のために味は誇張される。出来上がったものは極端な味付けの、うすっぺらなスープであり、値段だけが一人前である。
 そんな中、かたくなに味を守り続けている店がある。写真がそんな昔ながらの味を守り続けている店のラーメンであるが、見ただけでそれが尋常でないことがわかる。
 屋号を「もとむら」と言う。佐賀市内の外れにその店はある。ウオーキングの帰りに友人たちと立ち寄ったが、誰もがこの味に黙り込んだ。深みのあるスープは優しくクリーミーであり、よくぞこの味を守り抜いたと、その苦労を賞賛したくなる。
 残念ながら、博多にはもはやこのレベルの店はないだろう。ラーメンブームは続くが、いつかどこかで、その進化はターニングポイントを迎えるだろう。いつかは本来のラーメンに回帰して行く作り手が、登場するのだろうと思っている。