小学校の盆踊り大会に行った。上の娘は友達と約束していたらしく、私たちより先に浴衣を着て出て行った。浴衣はなかなか涼しげでいいものだ。不思議に女も男も色っぽく見える。私もいつかは浴衣を着て盆踊りに出掛けようと思うが、なかなか買い出さないでいる。どのくらいするのか知らないが、帯や下駄まで揃えると結構な値段になるのだろう。
随分昔の話しだが、私が小学校に上がる前、近所に一軒だけあった反物屋から生地を買ってきて、母に浴衣を縫ってもらったことがある。白地に紺の十字の柄が入った浴衣で、後にも先にも浴衣を作ったのはその時だけである。
ただ、その浴衣を来てどこかに出掛けた記憶は無い。その頃夏風邪を患い寝込んだ記憶があるが、その記憶の中で私は浴衣を着ている。寝巻として着ているのである。
今度作ったら粋に着こなして、下駄をカランコロンいわせながら、商店街の夜市にでも出掛けてみたいものである。
Sunday, July 30, 2006
浴衣
Saturday, July 29, 2006
東京の空

土曜日、久しぶりに週末青空が帰ってきた。どうやら梅雨も終わったようである。
東京の空、上を見上げればそれなりに青い。しかし地平線に目をやれば薄茶色にぼんやりとしている。車の排気ガス、工場の排煙、エアコンの室外機から吐き出される熱風で大気は汚れ、首都圏一体は巨大な喫煙ルームと化している。
高村光太郎の智恵子抄に「あどけない話」というのがある。福島生れの智恵子が東京の空を嘆き、郷里の空を懐かしむ有名な詩である。
あどけない話 高村光太郎
智恵子は東京に空が無いという
ほんとの空が見たいという
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言う
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという
あどけない空の話である。
地方から上京した人たちは、誰もが智恵子と同じ思いを抱いて生きているのかもしれない。郷里の山野に広がる目映いばかりの青空に、満天の星空。肉体は東京に同化しつつも、魂は郷里を駆け巡っているのかもしれない。
多摩センター

不覚にも乗り過ごしてしまった。別に飲んでたわけでもない。珍しく座れたので寝込んでしまったのである。目が覚めたら下車駅より五つ程先の多摩センター駅だった。次の唐木田駅が終点のため乗っている人もまばらだった。
仕様がないので隣りのホームで上りの電車を待った。多摩センターは小田急線と京王線の駅が隣接している。ホームに立って向こうに停まっているピンクのラインの京王線の電車を眺めていたら、8年前にひとりで九州から遊びにきた時のことを思い出した。その時は新宿から京王線に乗って多摩センターで下車した。8年前の7月終わり、ちょうど今時分である。8年前の今頃向かいのホームを歩いていたのである。
人生は不思議なものだ。8年前、まさか東京に住むことになろうとは思っていなかったし、まさか8年後に乗り過ごして多摩センターに来ることになるとは思わなかった。向かいの京王線のホームに、8年前の自分が歩いているような気がしたのであった。
Sunday, July 23, 2006
Saturday, July 22, 2006
キャンディー

娘たちが集めたキャンディーをテーブルの上に広げていた。口の広い瓶を二つ持ってきて、ふたりで数をかぞえながら瓶に詰めていた。キャンディーを分け合う娘達を見ていたら、「火垂の墓」を思い出してしまった。
アニメの「火垂の墓」で幼い節子は、大事そうに缶入りのサクマのドロップスを持っていた。正確に言えば節子が持っていたのは”サクマ式ドロップス”であって”サクマドロップス”ではないらしい。知らなかったが、世の中には「佐久間製菓株式会社」の”サクマ式ドロップス”と「サクマ製菓株式会社」製造の”サクマドロップス”の二つが存在するらしいのである。
もともとこのふたつ会社は戦前「サクマ製菓株式會社」というひとつの会社であった。しかし、戦時中砂糖の供給が止まり、会社の解散を余儀なくさせられる。終戦後、社長の息子と番頭がそれぞれ会社を興したため、2社のサクマが誕生することになる。サクマ式ドロップスの方は通称赤缶といわれ、サクマドロップスの方は緑缶と言われるらしく、サクマ式ドロップスの方が本家とされているらしい。
サクマの話しはこのくらいにして「火垂の墓」に戻るが、叔母の家を飛び出した兄妹は池のほとりで生活をするようになる。親が残した貯金を下ろして食いつなぐが、やがて貯金は使い果たし、ドロップキャンディーの代わりに節子は、おはじきを缶に入れて舐めるようになる。
悲しすぎて二度と見たくないアニメである。しかしながら、この兄妹にちょっと違和感を覚えるのも事実である。叔母の家で辛抱していれば、少なくとも節子の死は免れたはずであり、その判断が兄には出来たはずだと思う。ただこれは、アニメの視聴者としての視点で感じたことであり、実際に戦争体験が無い私の意見はナンセンスかもしれない。
娘たちのキャンディーがおはじきに変わる事がないように、世の中の平和を祈らなければいけないのである。
Monday, July 17, 2006
勝鬨橋
もんじゃ焼き
月島にもんじゃ焼きを食べに行った。44年生きてきてもんじゃ焼きを食べたのは昨日で2回目である。15年程前に東京に遊びにきた時、やはり月島でもんじゃ焼きを食べた。当時に比べるとかなりもんじゃ焼きの店が増えたようだ。商店街の両側にもんじゃ焼屋が何軒もあり、もんじゃ通りと言う名前が付いていた。
正直言って訳の分らない食べ物である。お好み焼きの水の量を失敗して多く入れ過ぎたような、料理としては完成されていないよう食べ物である。もともとはうどんを作った際の残りの粉を利用して作ったものらしく、明治時代から東京の下町で食べられていたらしいが、関東地方でしか普及していない。率直な感想を言えば、何故粉を多くしてお好み焼きにしないのか、非関東人、特に関西人の多くはもんじゃ焼きに懐疑的であると思う。
とは言いつつも家族4人で楽しく焼いて食べた。ミックス焼きを二つ焼いて食べたが足らず、梅ちりめん焼きを追加した。具を炒めドーナツ状に土手を作り、真ん中に粉の入っただし汁を流し込む。最後に土手を壊し具を混ぜ合わせ、平に延ばして焼き上げる。
焼き進むにつれ、何だかもんじゃ焼きの事が分かってきたような気がした。もんじゃ焼きは味を楽しむのではなく、調理を楽しむ食べ物なのではないかという気がしてきた。土手の中の粉汁をみんなで見つめ、今か今かと混ぜ合わせるタイミングを計る。粉汁は混沌としており、じっと見つめているうちにそこにカオスの世界を感じる。もんじゃ焼きは実に奥の深い食べ物なのである。
Sunday, July 16, 2006
軍艦島の話し
今週は多忙だった。月・火と福岡出張、東京に戻って徹夜の資料作り。昨日も出勤し、ようやく一区切りついた。
仕事を終え同僚と新宿ゴールデン街に飲みに行った。前日3時間程しか寝ていなかったのでかなり疲れていたが、身体の疲れとは裏腹に、ひとつの仕事を終えた喜びで気持ちは高揚していた。写真はゴールデン街付近、エアコンの室外機が面白かったので撮ったものである。
ゴールデン街のとある店で、若い女性客二人と隣り合わせになり世間話をしていた。私たちが九州出身と分かると、二人のうちひとりが長崎に先日行ってきたと言って長崎の話しになった。
博多の話や長崎の話が続いて申し訳ないが、この女性が長崎に何をしに行ったか、非常に興味深いので話したい。この女性歳は24歳、生れも育ちも千葉と、長崎とは縁もゆかりもないのだが、彼女は長崎に ”軍艦島” を見に行きそして島に上陸したらしいのだ。
軍艦島、長崎市の南部にある島で正式な島名は端島という。炭坑があった島で、コンクリート造の炭坑住宅が狭い島内に林立しており、海上から見たそのシルエットが戦艦に似ていることから、軍艦島と呼ばれている。実際、戦時中には米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだというエピソードもある。1960年、最盛期には5千人を超える人たちがこの島で暮らし、人口密度は東京特別区部の9倍以上に達した。炭鉱施設のほか、住宅・学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた島であった。(wikipedia記事より)
日本のすべての炭坑の運命がそうであったように、長崎端島炭坑も石油化の波に押され1974年に閉山。翌年には無人島となり、島ごと廃墟となってしまった。
私も初めてこの軍艦島を見た時、何とも言えないノスタルジックな気持ちになった。高度成長期、この島でも人々のささやかな営みがあったのである。海上に見えるコンクリートの住宅ビル群の部屋ひとつひとつに明かりが灯り、その明かりの下に家族の団らんがあったのである。
軍艦島はビルの倒壊の恐れがあるので一般人は上陸できないと聞いていた。また長崎でも上陸したと言う人を聞いたことがない。彼女がどうやって軍艦島に出会ったか、詳しくは聞かなかった。ただ、彼女の中の何かに軍艦島は触れたのだろう。そして彼女は必然的に軍艦島に上陸したのである。荒廃した島で彼女は何を見たのだろうか。何を思ったのだろうか。
Thursday, July 13, 2006
ホッピー
今日の東京は暑かった。朝から暑い中、西新宿に行かなければならなかった。地下鉄大江戸線に乗って都庁前で降りたが、地上に出るまでに汗をかいてしまった。大江戸線の深さにはいつもながらうんざりさせられる。ホームで火災があったら、地上まで生きて辿り着けるのだろうかと思いたくなるくらい深い。
仕事を済ませ駅に向かっていたらホッピーのトラックが停まっていた。珍しいので1枚写真を撮った。
ホッピーは九州人にはあまりなじみが無い。九州から引っ越してきた頃、あちこちの居酒屋でホッピーの看板を見かけたが、最初はホッピーが何なのか分からなかった。ホッピーとは、ホッピービバレッジ株式会社が1948年に発売したノンアルコールビールの一種で、普通は焼酎をホッピーで割って飲む。ビールに比べると廉価でまたプリン体が無いため健康にもいいとされている。
ホッピーの飲み方にもウンチクがあり、”三冷”といってジョッキ、ホッピー、焼酎をギンギンに冷やして飲むのが美味いとされている。しかも割る焼酎は甲類でなければならず、注ぐ際にかき混ぜるのは良くないとされている。
写真を撮りながら、ギンギンに冷えたホッピーがたまらなく恋しくなったのである。
Sunday, July 09, 2006
花火
昨夜娘達と庭で花火をした。ブログの記事を見ると昨年は6月25日にしているが、今年は雨が多く、昨日になってようやくすることができた。
以前長崎に住んでいた。長崎の精霊流しでは、びっくりするほど花火を上げる。爆竹は箱ごとどころか段ボールごと火をつけ、その火柱がジリジリと音を立て電柱の高さ程になる。
一方墓場では、墓前に花を生けお参りを済ませると、その場で矢火矢(やびや:ロケット花火のこと)に火をつけ爆竹を鳴らす。子供ではなくて、おじさんたちが神妙な顔をしてやっているのだ。中国から入ってきた風習だと思うが、こんな風習は日本では長崎にしか無いだろう。8月15日の精霊流しの日だけで1億円以上の花火が消費されるらしい。
家々に男達は船を曵き、鉦を鳴らし、爆竹に火をつける。轟音に耳を塞ぐこともあるが、船に飾られた遺影や曵き子の男達の背中に、深い悲しみを垣間みることもあるのである。
Saturday, July 08, 2006
Sparkling Water
昨夜飲み過ぎたおかげで今日は一日放心状態だった。長崎にいた頃の会社の同僚が、転勤で上京したので二人で遅くまで飲んだのである。
実に彼と飲むは10年ぶりだった。新宿3丁目のもつ煮込み屋からスタートし、ゴールデン街、下北沢と5軒もハシゴした。
彼は学生時代高円寺に住んでいたらしいが、東京が嫌になって故郷に帰ったと言っていた。明日25年ぶりに高円寺に行って、昔住んでいたアパートを探してみると言っていた。アパートを探してみる事が自分の人生において大変重要なことなんだと言っていた。
昼寝から目を覚まし、コンビニで買ったSparkling Waterを飲みながら、高円寺のアパートはあっただろうかとぼんやり考えていた。
Saturday, July 01, 2006
ボーナスの日に
昨日ボーナスが出た。ボーナスの日ぐらい何かおみやげを買って帰ろう。下北沢で飲んで帰る途中、古着屋で娘に帽子を買った。プジョーのキャップだ。古着屋のショーウインドウにかっこ良く飾ってあった。他にサンバイザーを二つと自分にはアディダスのスニーカーを買った。
ボーナスの日は嬉しい。ほろ酔い気分でおみやげをぶら下げ帰った。
山笠
また出張で福岡に行った。仕事を終えて中州に繰り出した。中州で飲むのは実に三年ぶりである。通りを歩いていると中州流れの”飾り山”に出会した。
博多祇園山笠。どんたくに並ぶ博多の祭りである。町別に「流」と称する七つの山笠が競い合う。7月1日のお汐い取りに始まって
15日の追い山でフィナーレを迎える。博多っ子の血が騒ぐ祭りである。
高校の時に山笠を担いでいる友人がいたが、皮が剥けた肩を自慢げに見せていたのを覚えている。それは博多の男の勲章なのである。
またチューリップの曲なのだが、博多を歌ったいい曲があるので紹介したい。
博多っ子純情 チューリップ
いつか君行くといい 博多には 夢がある
できるなら夏がいい 祭りは山笠
男達はとても見栄っ張りで気が強い
海の風に吹かれるから
だけどみんなすぐに貰い泣きするよな奴
酒を飲んで肩をたたく
人ごみに身をまかす 黄昏れた中州では
誰でもが少しだけ 優しくなれるさ
夜の女達は気まぐれで移り気だよ
紅をさして男誘う
だけどいつか愛が欲しいと春吉橋で
人に隠れ涙流す
山笠は千代町流れ 悲しみも押し流す
この僕の故郷は 遠い町 博多
どこか遠い知らぬ町へもしも行きたいと
思う時は行くといいよ
独りぼっちならばポケットに手を差し込み
背中丸め歩けばいい
今日から7月。博多の町では法被姿の男達が闊歩しているだろう。
博多の夏の幕開けの日である。