Wednesday, November 15, 2023

カレーライス


 先週の土曜日、実家に帰り母を連れ出して朝倉までドライブした。運転は姉で助手席に母、私は後ろのシートに座り電子タバコを燻らせながら、秋が深まる朝倉の田園風景を眺めて喜んだ。
 写真は朝倉の三連水車からちょっと山間に入ったところにあるカフェで食べたカレーである。家庭で食べるような昔ながらのカレーで美味しかったのだが、じゃがいもの代わりに大きな林檎が入っていた。写真の手前に写っている一見じゃがいものような塊が実は林檎なのである。じゃがいもと思って口に放り込んだら林檎だったのでびっくりした。

 話は変わるが遠藤賢司のカレーライスという曲がある。発売は1972年だから今から50年以上前の曲である。彼女が作ったカレーを二人して食べるだけの他愛もない歌詞で、いわゆる「四畳半フォーク」と言われる種類の曲なのだが、私はこの曲が好きで、年に数回思い出したように聞いている。四畳半の中に充満する幸せ感がたまらないのである。
 そんな他愛もない歌詞だが一箇所だけ気になるところがある。歌詞の一部を抜粋する。

 猫はうるさくつきまとって
 私にもはやくくれニャァーって
 うーん とってもいい匂いだな
 僕は寝転んでテレビを見てる
 誰かがお腹を切っちゃったって
 うーん とっても痛いだろうにねえ
 カレーライス
 
 「誰かがお腹を切っちゃったって」この部分なのだが、これは三島由紀夫の割腹自殺のことのようである。「うーん とっても痛いだろうにねえ」とその行為に懐疑的なことが見て取れる。この事件は私が小学校に上がった頃で、家に帰ってテレビを点けると、どのチャンネルもこのニュースばかりを放送していたのを覚えている。なぜ死ななければいけなかったのか、遠藤賢司氏も疑問に思ったのだろうと思う。
 ここからは私の推測だが、恐らく最初はこの箇所には違う言葉が入っていたのではないかと思う。日常を描写しただけの、ほのぼのとした歌詞が書かれていたのではないかと思う。
 何か物足りなさを感じた遠藤賢司は、この二行を三島由紀夫の死について書くことを思いつく。叙情詩の中に叙事詩的なスパイスを入れることにより、歌詞に思想的な脊柱を入れたのではないだろうか。
 四畳半のアパートで彼女がカレーを作っていて部屋中にカレーの香りが充満している。それだけで幸せじゃないか、何も死ぬことはないじゃないか、と遠藤賢司は言いたかったのだろう。その死に何の意味があるのかを遠藤賢司は深く考えたのだろうと思うのであった。



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