Sunday, July 22, 2018

一目山

IMG_8168




 それはまるで、夏空へと続く滑走路のように
 遮るものもなく真っすぐと
 草原の中に道があった






Sunday, July 08, 2018

博多祇園山笠

IMG_8106

 5日より北部九州は記録的な大雨に見舞われ、福岡市内でも避難指示や避難勧告が発動され、今も引き続き注意が必要な状況にある。
 昨年襲った九州北部水害の爪痕も癒えない中、ただただ被害の拡大がないことを祈るばかりである。

 そんな予断を許さない状況ではあるが、博多の町は刻々と山笠ムードに包まれつつある。長法被にステテコ姿の男衆が博多の町を闊歩し、博多の町に夏の到来を告げて回っている。15日のフィナーレ”追い山”に向けて、さらに博多の町はボルテージを上げていくだろう。

 週明けから天気は回復に向かい、その後は晴天が続くようである。おそらく、この雨が上がりきれば博多も梅雨明けだろう。
 山笠が博多の町を駆け抜ける姿が待ち遠しい。まぶしい夏の到来が待ち遠しい、今日この頃である。








 
 

Saturday, June 30, 2018

新橋カリカル

IMG_0769

 今週、出張で日曜から火曜まで東京にいた。
 久しぶりの東京はすでに夏の暑さ。人が多いからかもしれないが、博多より暑苦しく感じる。その暑さの中、キャリーケースを引きずりながら取引先を回る。立ち止まると汗が、ワイシャツの中を滴り落ちてくる。昼食をとる間もなく、地下鉄を乗り継ぎスケジュールを予定通りにこなしていく。その移動の間に遅い昼食をとったのが、新橋駅前ビルの老舗カレー屋”カリカル”である。
 カリカルは創業1958年とあるから、東京タワーの竣工と同じであり、人間でいえば今年還暦を迎える。60年間、新橋カレー界を牽引してきたのである。
 写真は私が食べたチキンカレーである。値段は820円。決して安くはないが、欧風のスパイシーなカレーで、私たちの世代が慣れ親しんだ、懐かしさを感じるカレーである。 一体今まで、何人の人がこのカレーを食べたのだろうか。この界隈のサラリーマンなら、一度はこの店に行ったことがあるのではないだろうか。新橋サラリーマン物語の一面を語る店である。
 一気に食べ終えて支払いを済ませ店を出る。改札を目指してまたキャリーケースを引きずっていく。カレーの辛さに刺激され、汗が噴き出てくる。ハンカチで額の汗を拭いながら次の取引先に向かったのだった。


 

Sunday, June 17, 2018

猟師山

IMG_7923




  ミヤマキリシマが散れば、久住はもう夏山になる。 
  まぶしい夏が、始まろうとしていた。







Sunday, June 10, 2018

ホーム

IMG_0647

 友人の父が亡くなり、お通夜に参列するため、急遽鳥栖に帰った。
 お通夜が終わり、集まっていた友人たちと居酒屋で飲み、スナックをはしごしてその日のうちに博多に帰った。
 写真は鳥栖駅1番ホームで、上り電車を待つ間にスマートフォンで撮ったものである。時刻は10時40分。湾曲したホームを蛍光灯が優しく照らしている。そのホームに女性がひとり、上り電車の到着を待って立っている。おそらく仕事帰りだろう。無事に一日が終わった安堵感のようなものを感じる。

 その情景に引きずられながら電車に乗る。心地よい揺れに誘われ、目が覚めたら博多駅。危なく乗り過ごすところであった。


 


Saturday, June 02, 2018

岩井川岳

IMG_7637
 先週日曜日、九重の岩井川岳と扇ヶ鼻に登った。瀬の本高原の林道から入り、約2時間掛けて山頂に到着した。
 写真は岩井川岳山頂で撮ったものである。鬱蒼とした林道を抜けた途端に視界が開け、広々とした笹原にミヤマキリシマが咲き広がっていた。
 しばらく私たちはその風景に見とれていた。その野原に立ち、今まで見たことがなかった九重の風景に、ため息をついて立ちすくんだ。







Sunday, May 13, 2018

メニュー

IMG_0507



  GWも終わってしまって
        部下と居酒屋でメニューを見上げる水曜日。
  うれしそうに見上げる部下たちの顔を見て、微笑む上司。
  じゃんじゃん注文していいから。
  大丈夫、わが社の将来も明るいから。








Saturday, May 05, 2018

山の彼方のちゃんぽん

IMG_0473

 5月4日、JR筑後草野駅から耳納山地を越えて八女市上陽町まで歩いた。いつも耳納山地を北側から眺めていて、南側にどんな町があるのか気になっていたのである。
 距離にして約20キロメートル、ほとんどすれ違う人もいない。耳納平を越えて八女側に入ると、茶畑が点在していた。おそらく南側の斜面が、北側のうきは側の斜面より陽当たりが良く、お茶の栽培には適しているのだろう。
 山間部には集落が点在していた。こんな山奥にも集落があったのかと驚く。里山を絵に描いたような、手入れが行き届いた田畑に家々。集落には、5月のまぶしい日差しが差し込んでいた。

 スマートフォンの地図で現在地を確認しながら、ひたすら山を下りる。時刻は午後1時、歩き始め5時間、ようやく山を下り切り上陽町の町中にたどり着いた。
 バス停で時刻表を確認して、一軒の食堂に入る。屋号は大勢屋。年老いたご夫婦が二人で店を切り盛りされていた。
 忙しそうにされていたので、注文を聞かれるまで待っていると、「ちゃんぽんですよね?」と、ひと区切りついたおばさんがようやく私に聞いてきた。おそらくこの店はちゃんぽんが一番の人気メニューなのだろう。迷うことなくちゃんぽんを注文する。写真がその大勢屋のちゃんぽんである。
 驚いたことに、ネギが乗っている。しかも、かまぼこまであと乗せである。この辺りでは、このスタイルがスタンダードなのだろうかと思うと楽しくなってくる。すこし甘めでクリーミーなスープが、歩き疲れた身体にじんわりとしみてくる。
 しかし、バスの時刻まであと20分。悠長に食べている時間はない。一気に食べ終え、勘定をしてもらう。「お待たせしてすいませんでした。またよろしくお願いします。」とおばさんが釣銭を渡しながら私に言う。また来なければいけない。山を越えてネギの乗ったちゃんぽんを、今度は高菜チャーハンと一緒に食べよう。そう思いながらバス停に向かった。





Thursday, May 03, 2018

どんたく

IMG_6930




   父に手を 引かれて見たのは 遠い昔
  






Wednesday, May 02, 2018

5月

IMG_6838





   まぶしさに 手をかざして 五月かな  








Sunday, April 29, 2018

折尾堀川沿い

IMG_6596

 写真は折尾駅東口の堀川沿いに連なる飲食店街である。再開発が進む折尾駅周辺、この風情ある飲食店街も、あと数年で消えてなくなる。その前に一度歩いておこうと、ひとり折尾駅で下車した。
 江戸時代初めまで遠賀川は、大雨の度に氾濫し流域の村々に大きな被害をもたらしていた。 福岡藩主黒田長政は、その対策として遠賀川の中間から洞海湾へ運河を通すことを計画する。着工から約140年をかけてようやく堀川は完成したらしい。

 一軒だけ開いていたラーメン屋に入り、餃子を焼いてもらいビールを飲む。餃子が焼けるのを待ちながら、年老いた女店主に再開発のことを聞いてみた。店主が言うには、再開発による撤退まであと6年らしい。「さびしくなりますね。」と私が言うと、街も人も同じであたらしく生まれ変わる必要があるのだと言われる。その言葉が、私には自分自身を納得させるために、たどり着いた結論のように聞こえた。

 餃子が焼き上がった。博多の餃子よりは大振りで板状の形をしている。ラー油の代わりにテーブルには一味唐辛子が置いてあった。醤油ダレにその唐辛子を落として餃子をつける。街も人も生まれ変わらなければならい。その言葉を反芻しながら餃子を食べ進める。あるいはそれは決意なのかもしれない。この街とともに戦後を生き抜いてきた女店主の、確固たる決意かもしれない。そんなことを考えながら最後にラーメンを注文した。



IMG_0441





Wednesday, April 25, 2018

日曜日

IMG_6575



 僕も日傘のご夫人と、ボートに乗りたいと思いました。






Sunday, April 22, 2018

堀田食堂

IMG_0421

 JR筑肥線浜崎駅前に堀田食堂はある。今ではチェーン店のコーヒーショップやハンバーガー屋が駅前を占拠しつつあるが、今も頑張っている大衆食堂を見るのはうれしいものである。
 昨年の夏、浜崎駅を訪れた時からこの食堂が気になっていた。鄙びた駅舎とともにこの食堂が駅の歴史を物語っている。佐賀新聞の記事によればこの堀田食堂は、大正時代に開店したらしいから駅の開業とほぼ時を同じにしている。
 紺色の暖簾には右から親子丼、ラーメン、チャンポン、カレー、うどんと書かれていた。時刻は正午前、その暖簾をくぐって店の中に入った。

 店内に張られたメニューを見て悩んだ挙げ句、ラーメンといなりを注文した。本当はラーメンと炒飯を食べたかったのだが、半炒飯がなかったので仕方なくいなりにしたのである。
 写真がそのラーメンといなりである。たこ焼きのような形をしたいなりに、そして白濁ではない澄んだスープのラーメン。ラーメンにはチャーシューではなく豚肉ともやしにネギが乗っていた。九州では珍しいスタイルである。
 ひとくちスープをすする。失礼だがあまり期待していなかったが、すっきりとした中にも深みがあるスープでなかなか美味い。おそらく豚で取ったスープに、魚介類系を合わせたのではないかと思われる。ネギが甘く際立ちスープを引き立てていた。
 
 間違いなく堀田食堂のラーメンは、この界隈の人たちのソウルフードだろうと思う。帰省すると必ず食べる人も多いのではなかろうか。
 このラーメンで大きくなった若者が、やがて白濁の豚骨ラーメンに出会い、その違いにショックを受け、ラーメンとは何ぞやと自問自答しただろう。
 しかし、若者も年を取るにつれ、故郷が遠くなるにつれて、このラーメンに思いを巡らせるだろう。父母と一緒に食べた、友達と学校帰りに食べた堀田食堂のラーメンを、たまらなく懐かしく思うだろう。
 堀田食堂のラーメンは、故郷のように優しく包みこんでくれる、そんなラーメンである。



 

筑肥線

IMG_0416

 土曜日、筑肥線に乗って久しぶりに唐津まで行ってみた。
 途中、筑前前原駅で西唐津行きに乗り換える。しばらくすると、右手に背振山系の峰々が車窓に広がり始める。車窓に見えているのは二丈岳だろうか。麓の新緑が薫るようにまぶしく、車内には初夏の到来を感じさせる陽が差し込んでいた。

 そんな牧歌的な風景を左に見て、右には玄界灘の青い海を見て電車は西へと進んで行った。しばらくその風景の中を揺られていた。






Saturday, April 14, 2018

宝来軒

IMG_0363

 熊本城のたもとに宝来軒と言う小さな中華料理屋がある。昨年、熊本城を訪れたときから、その小さな食堂が気になっていた。先週、熊本城に行く途中、その食堂で昼食をとることにした。

 大通りの角に面した店の戸を開けると、高齢の奥さんと野球帽をかぶった店主がにこやかに迎えてくれた。時刻は11時過ぎ、店内に先客はいなかった。
 ひと通りメニューに目を通して私は焼きビーフンを、連れ合いは皿うどんを注文した。野球帽の店主が鍋を振るい出す。ガシャガシャガシャ、コンコン、ガシャガシャ、コンコン。中華鍋の中で具材が舞い、お玉が鍋肌をかき回す音が店内に響く。その音を聞きながらできあがりを待つ。そして出てきた焼きビーフンの写真がこれである。
 値段は580円。おそらく値上げもせずに頑張っておられるのだろう。その値段とボリュームに申し訳なく思いながら料理に箸をつける。

 食べ始めて、とあることに気づいた。それは野菜の切り方が長崎風なのである。長崎では皿うどんやちゃんぽんなどに入れる野菜を、千切りにするのである。少なくとも博多では千切りにしない。気になって連れ合いの皿うどんを少し食べてみる。長崎ほどの甘さはないが、長崎の味に近い。さらにメニューを見ると、酢豚ではなく酢排骨(スーパイコ)と書かれている。長崎では酢豚と言わず酢排骨と言う。恐らく長崎で修業されたのだろう。
 ひと通り料理を作り終えた店主に話しかけてみる。創業を聞くと、「もうここに店を出して48年になります。」と言われた。昭和44年、私が小学校に上がった年に、この店はオープンしたことになる。
 私が「長崎で修業されたのですか?」と尋ねると、振り返って「どうして分かったのですか?」と驚かれ、私が「酢排骨」のことを話すと「同業者の方ですか?」と言われ笑ってしまった。
 あとでネットで調べてみると、熊本震災で大きな被害を受け、11カ月かけて昨年3月に店を再開されたらしい。恐らく、ご夫婦ともに八十に近い年齢ではないかと思う。災害に負けず復興された、その熱意と苦労に頭が下がる思いである。

 お勘定を済ませ、奥さんからお釣りを受け取る。厨房の中から「また近くに来たら寄ってください。」と野球帽の店主が笑顔で私たち言う。「また来年来ますよ。」と言って店を出て、大きく膨らんだお腹を抱えて、熊本城へ向かったのだった。




肥薩おれんじ鉄道

IMG_6439

 写真は肥薩おれんじ鉄道の車内で撮ったものである。登山中の滑落事故から1年、約1カ月の入院生活を送った熊本を1年ぶりに訪れた。

 八代から肥薩おれんじ鉄道に乗り換え、日奈久温泉へと向かう。まださくらが残る八代の野に、小雨が降りだした。数日前までは20度を超える陽気であったが、寒気が流れ込み、山沿いでは雪が降るだろうと天気予報が報じていた。季節が逆戻りしたような気候であった。
 2両編成の先頭に幼い女の子がじっと立ちはだかり、その切り通される風景を見入っている。この春、大学を卒業した娘が小さかったころを思い出しながら、その愛らしい光景にシャッターを押した。

 肥薩おれんじ鉄道は、九州新幹線 新八代駅-鹿児島中央駅間の開業に伴い、JR九州から経営移管された、旧鹿児島本線八代駅-川内駅の区間である。
 もう30年以上前のことになるが、私が社会人になった時、最初の勤務地が鹿児島だったため、実家の鳥栖に帰省するたびに、何度もこの路線を往復した。八代を少し過ぎたあたりから、不知火海が右手に広がり始める。その延々と続く海を眺めなら郷里の遠さを思った。

 そんなことを思い出しながら電車に揺られていた。30年以上前の残像を記憶の奥から引き出して、日奈久温泉に向かったのだった。