Monday, July 20, 2015

熱海

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 土曜日、東京出張のついでに熱海を訪れた。久しぶりの東京出張。三連休でそのまま帰るには勿体なかったから、行ったことがない熱海へ小旅行をしようと思い立った。
 東京駅から電車に乗って熱海に降り立つ。駅舎を出た時にまず熱海の地形に驚いた。私は勝手に海に向かってなだらかに広がる街を想像していたが、熱海の街は伊豆連山から相模湾に伸びる扇状地で平地はほとんど無く、山の斜面にへばりつくように広がっていた。
 駅前の商店街を散策しながら、宿がある渚町へとその丘陵を下りて行く。商店街は三連休のせいもあって、観光客で人がごった返していた。名物の干物を売るお土産に饅頭屋。相模湾の海鮮を食べさせる食堂にそば屋。そんなお店が商店街に数多くあった。
 商店街を出て湾曲する道を宿へと歩く。途中、雨に打たれながら、お土産で重くなったバックを抱えながら、坂道を下りる。宿に着く頃には、雨と汗でびっしょりになっていた。

 昭和11年生まれの民宿のおかみさんの話しによれば、熱海は昭和35年頃をピークに徐々に衰退の道を辿ったらしい。高度成長期には、東京の奥座敷として、大量の慰安旅行や修学旅行、そして新婚旅行客を受け入れ、熱海の街は隆盛を極める。
 やがて高度成長期も終盤に近づくと、人々は集団的な価値観から抜け出し、個人や家族の幸福を中心に置いた価値観へと変わって行くが、高度成長期の賑わいを取り戻そうと行政や旅館経営者たちは、衰退の本質を考えずに設備投資を行った。あたかもギャンブルで大勝した男がその感触を忘れられずに、やがて来ると信じる”勝ち”を夢見て、お金を注ぎ込むように。
 結局熱海にはテーマがなかった。テーマを作ることをしなかったのだろう。しかし、この地をかつて訪れ、そして思い出を持つ人々は、熱海の再興を願っているのである。幼い頃、母に手を取られ父に背負われこの街を訪れた人、集団就職で上京し慰安旅行で訪れた人々、そして新婚旅行で手をつなぎ将来のしあわせを信じながらこの街を歩いた人たちの思いが、この街には漂っている。

 熱海の街を二日間歩きながらそんなことを考えた。今、熱海の街がどこへ向かって進んでいるかを私は知らない。すでに熱海は目指すべき方向へ動き出しているのかもしれない。
 かつてここを訪れた人々のその大切な思い出のためにも、熱海は発展して欲しいと思いながら駅までの道を歩いた。






Sunday, July 12, 2015

皿うどん

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 昨日、友人の父親が亡くなり、その弔問のため鳥栖に行き、同級生が家族で営む中華料理店で昼食を取った。何にするか迷ったが、一緒にいた友達は麻婆定食、私は皿うどんの細麺を頼んだ。
 皿うどんには細麺と太麺がある。本場長崎で皿うどんとだけ言ったら、細麺の方を指す場合が多い。好みが別れるところであるが、私は細麺の方が好きである。
 そもそも皿うどんは汁気の多いちゃんぽんを配達しやすくするために考案されたものらしく、具材はちゃんぽんと同じでキャベツに豚肉、イカやカマボコなどであり、炒めた具材に白湯スープを注ぎ込む。皿うどんの場合は味付けに砂糖が入り、水溶き片栗粉を入れてあんかけにする。
 細麺の麺は細いほど美味い。細いほど餡に麺が馴染みやすく、食べ始めはパリパリとして、やがて熱々の餡が麺を蒸ししんなりとさせて行く。その麺の変化を楽しみながら食べるのである。

 目の前に皿うどんが運ばれて来た。少し麺をしんなりさせたいので腕を組んで皿うどんを眺めていたら、女性の店員が「どうかされましたか?」と聞いて来た。「いや、ちょっと麺をしんなりさせたいので時間を置いてるだけです。」と私が答えると、おかしかったみたいで厨房に戻り他の店員に笑いながら説明していた。その笑い声を聞きながら、私は長崎の流儀に従いソースを掛けて、少ししんなりとなった皿うどんに箸を入れたのだった。









 

Sunday, July 05, 2015

七月

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 七月になった。七月に入ると博多の町は山笠一色になった。
 写真は商店街の飾り山の前で写真を撮る人々を写したものである。
 
 山笠関係の友人から今年は出てみないかと誘いを受けた。
 ちょっと迷ったが、丁重にお断りした。私も今年で53才、体力に自信がないのだ。
 今年も観客に徹して、写真を撮りたいと思う。
 人事異動で部署も変わった。3年ぶりの異動である。
 心機一転、気持ちをリセットして頑張ろうと思う。

 さまざまな物が動き出している。夏のせいかもしれないがそんな気がする。
 博多の町中を流れ行く山笠のようにエネルギッシュに今、動き出そうとしている。